そこに眠っているからこそ会いに行ける


紅白で歌われた秋川雅史の「千の風になって」。
来週発表されるランキングで、かなり上位まで行きそうです。


で、おそらく「紅白で歌われて大反響を呼んだ感動の歌」といった感じで
手放しで絶賛する記事やブログがたくさん出ると思うので
このタイミングで、前から思っていることを書いておきます。


俺がこの曲を知ったのは、秋川さんがシングルとして発売した昨年の5月頃。
ステージで彼が歌うのを生で聴く機会もありました。その後、
11月に彼の紅白出場が決まって驚くと共に、数十%の視聴率の中で
歌われることが確定したことで、年明け以降の反響を楽しみにしていました。
そして紅白の本番、歌われる前に、今や誰もが日本屈指の名優と認めるであろう
キムタクが歌詞を朗読するという、これ以上ない贅沢で最高の演出が為された時、
俺は確信しました。「うわ。これは大変なことになるぞ」と。


この歌は、我々に感動を与えると同時に、
お墓って何だろう?と考えさせてくれます。


我々は、故人の命日やお彼岸に、墓参りをします。
大事なことの前後に、墓前に報告に行ったりします。
墓参りは世界の国々でやると思うのですが、
「よぉ、今年も会いに来たぜ」とか「私だけトシとっちゃって、ズルイわあなた」とか (←ドラマの見過ぎ)
そこに本人がいるかのごとく話しかけて墓石を撫でたりするのは
何となく日本人しかやらないような気がするのですが、どうなんでしょう。(^_^;)


手桶の水で墓石をキレイに洗い、周りを掃除し、花を供える。
また、墓石に落書きしたり傷をつけたりしたら罰当たりだと言われる。
それは、お墓そのものに故人を投影しているからでしょう。


故人を直接知らなくても、例えば時代劇や小説で知った歴史上の人物の
菩提を弔ったお寺などを訪れるのは、「会いに行く」という感覚に近いはずです。
お墓があることで歴史を実体として感じ、思いを馳せることができます。


人が皆、墓参りをするのは、亡くなった人がそこに眠っているからであり、
そこに行けばその人に会える気がするからこそ、でしょう。
「自分のお墓は不要です」と遺言する人も増えているそうですが
お墓があれば、親族や知人がそこに集まる機会が生まれ、交流が保たれます。
そういう「想い」を集め、受け止める場として、お墓って大事だなと思います。
そう考えると、お墓や墓地って、決して冷たいもの・不気味なところでは決してなくて、
むしろ多くの人の想いが集まった、温かい場所だと言えるかもしれません。


だから、「千の風になって」の
「そこに私はいません 眠ってなんかいません」というフレーズを最初に聴いた時、
正直、表現としてちょっと強すぎる言葉だな、という気がしたのです。


…誤解のないように言っておきたいのですが、
この「千の風になって」の歌詞の内容は
決してお墓を軽視したり、「お墓不要論」を説いたりしているわけではありません。
それは歌を聴けばおわかりになると思いますし、
俺も「この歌はけしからん!」などとは全く考えていません。(←重要)


亡くなった人はお墓の中にじっと眠っているのではなく、
大自然に溶け込み、その一部となって、いつも自分のそばにいてくれるのだ…。
そう思うことで救われたり、力づけられたりすることは、確かにあります。
俺だって、もし自分が死んだら、大事な人のところに飛んで行って
「いつでもあなたを見守っているからね」と伝えたいと思いますから。
でも同時に、「たまにはお墓にも来てね」と、きっと言うんじゃないかな。


亡くなった人は、残された人の記憶の中で成長し、生き続ける。
そんなふうに死者に思いを馳せることのできる生き物って、
もしかしたら、人間だけなのかもしれません。
そんな人間の心の機微って、素晴らしいなと思うのです。
(「涙そうそう」の歌も、それに通じるものがあります)


今回「千の風になって」の詩がより身近な形で浸透したことで、もしかしたら
「お墓は形式的なものに過ぎない」「私の遺骨は海に撒いてもらおう」
と考える人が増えるかもしれません。


でも、お墓そのものを大切にする美意識を
我々がずっと守り続けてきたことも、忘れないでほしいと思うのです。
特定の宗教に基づいて言っているのではなく、
故人を偲び尊ぶ、というのは当然の行為ですから。



 「千の風になって」秋川雅史